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浅水地区の民俗芸能

 浅水地区の史跡・遺産については、下記PDFを参照ください。

ふるさと手作り紙芝居

お鶴の自愛永遠に

浅水の民俗芸能

日高見流浅部法印神楽

 室町時代の康暦年間(1379~1381)、瀧澤道胤が岩手県東磐井郡藤沢町西口にあった不動院に神楽を伝えたのが「西口流神楽」と称されるもので、寛保年間(1741~1744)に上沼八幡山へこの神楽が伝承されたとあります。

 旧浅邊村の三壽院芳賀廣瀬法印は上沼から別れ、明治5年(1872)、白山姫神社の氏子10名に50番の神楽を伝授し「日高見流神楽」と称し、今日まで連綿と伝承しています。

長谷観世音虎舞

 天正18年(1590)、異教(キリシタン)が流行し、このため伊達勢の打ち手20数騎の奇襲をうけ、焼き打ちをかけられ一山は火難をうけました。親子の大虎が現れて、観世音堂の後ろの池に飛び込み、全身の毛に水を含ませながら、猛火を鎮めたと言い伝えられています。長谷観世音虎舞は、観音様の化身として出現した勇猛な姿を後世に残すために舞い始めたものといわれています。

長谷山打囃子

 長谷観世音の神輿が、毎年旧暦2月の初午に際し、旧水越村を廻って火伏せの祈禱をしていた記録が、弘化年間(1844~1848)の古文書に見受けられます。

 この神輿に供奉して、7つの集落を7日間にわたり各戸毎に舞ったという虎舞のお囃子が主体となっているのが「長谷山打囃子」です

小島田植踊

 遠く平安の昔、奥州平泉藤原氏全盛時代、米作り奨励のため振り付けされたのが田植踊と言い伝えられています。田植踊は、元々正月の予祝芸能として演じられてきたもので、正月様を迎え、寿命の長久を祈り、五穀豊穣を願う「田遊び」が風流化したもので、小正月には家々を廻り、小島地区の氏神様である「雲南神社」の祭典に奉納されてきました。

小島願人踊

 願人踊は、元々五穀豊穣を祈願して演じられたものが、次第に信仰から離れ、座敷芸へと変遷し、酒宴の座興として「甚句」や「おいとこ」などとともに踊り継がれてきました。昭和57年(1982)11月、東京で開催された全国青年大会郷土芸能の部に出場し、「小島田植踊」に続いて2度目の日本一に輝き、翌年3月には米国ディズニーランド公演を果たしました。

長谷山甚句

 弘化2年(1845)、関西芝居の中村茂十一座を招き大祭典を計画いたしましたこのとき、芝居小屋に遊びに行った長谷山の若者たちが一座の役者から教えてもらった芝居の踊りと、元禄2年(1689)頃から伝え継がれた地踊りが一緒になり、現在の「甚句踊り」の振りになったと言い伝えられています。。

巻おいとこ踊

 天保年間(1830~1844)、幕府の老中水野忠邦の手によって企図された印旗沼(現千葉県)干拓工事の折、そこに働いていた土工たちによって唄われた「おいとこそうだ」が、江戸にまで伝わったものが「おいとこ節」となり、その後、流行り唄として全国各地に普及したと言い伝えられています。巻おいとこ踊は、江戸時代末期、浅水長谷山に伝えられた踊りの一つでです。

浅部七福神舞

 浅水浅部には、日高見流浅部法印神楽や浅部囃子舞とともに、古くから新年や祝言などに各地から招かれ演じてきた祝福芸として、七福神舞が古風なまま伝承されています。 全国各地で演じられている七福神舞の形から見て、一段と古いものであることが、次の点から明らかです。一般に七福神として伝えられている「弁財天」や「福禄寿」がなく、代わりに「翁」と「猩猩」が七福の神々として構成されており、その詞章や舞などに古雅な味わいを残しています。

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